自分と合わない人との仕事の進め方
「学生と社会人の違いは、自分と合う人とだけ関わっていられるか、そうでないか」というような話を聞きます。これは独立して仕事をするというような選択をしない限り、ほぼ真実なのではないかと感じます。「仕事なんだから当たり前」というような声が聞こえてきそうですが、そうは言っても自分とは合わない人はいるわけです。
自分と合わない、は価値観の相違なのか?
「自分とは合わない」という言葉はよく聞く言葉ではありますが、その中身について吟味されていることがあまりないように思えます。そもそも「自分とは合わない」というのはどういうことなのか。例えば、自分の“価値観”と合わないという話なのか。そうであれば、自分と合う人というのは「自分の価値観と合っている人」となるのだろうか。実際に考えてみてください。あなたが「自分と合う」と感じるのは、あなたと価値観が合っているからですか?
ち
ょ
っ
と
考
え
て
み
て
く
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い
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いかがでしょうか?もちろん、自分と同じような価値観を持っている人を“自分と合う”と思うケースもあろうかと思いますが、全ての人が必ずしも“価値観”があっている人ではないのではないでしょうか。そう、自分と合う、合わないは、実は“価値観の差”ではないのではないかという疑問が出てくるわけです。では一体何の差なのでしょうか。
楽しみを目的とする人と勝つことを目的とする人が共存できるか
話は変わりますが、よくあるスポーツマンガか何かで強くなっていく系のものってありますよね。そういった際によくあるシーンとして描かれるのが、旧体制派と新体制派。その対立の中身は、純粋にスポーツを楽しみたい旧体制派と、勝つためにスポーツをする新体制派であることがほとんどなのではないかなと思います(両立を目指すように描いていることが多いですが)。実際にこの“楽しみたい”と思っている人と、“勝ちたい”と思っている人がチームの中で共存することは可能だと思いますか。
もちろん、気持ちの中では両立させたいと私も思いますが、本気で“勝つ”という方向に舵を切るのであれば、“楽しみたい”を第一優先にしたい人は排除すべきだと思います。勘違いしていただきたくないのは、楽しんではいけないというわけではない、という点です(勝つことが楽しいという人もいるでしょうし)。大事なのは、優先順位。“勝つ”を優先順位の1位に持ってくるかどうか、というところが握れなければ、“勝てるチーム”にはなれないでしょう。
目的を絶対的なものにしなければ議論は進まない
話を戻すと、自分と合わないかどうかというところの判断は、それぞれの人が考えている“目的”が違うと引き起こされる事象なのではないかという仮説が立ちます。その“目的”というのも、その人の持つ“価値観”に起因することが多いので、“価値観”を全面的に否定することはできませんが、影響があるのは間違いないでしょう。兎にも角にも、どういった“目的”でコトをするのか、というところをお互いに明確にすることが、お互いに気持ちよくコトを進められるのではないかと思います。
そして何より大事なのが、その“目的”こそが各人の“価値観”を上回る存在にしなくてはならないということです。その“目的”こそが何よりも優先すべき事項であり、個々人の“価値観”は二の次。それをルールにできなければこの理論は崩壊します。すると、物事を決めるときには「私は○○と思う」という発言ではなく、「目的に照らし合わせると○○だと思う」という発言に変化するはずです。議論というものは、個々人の価値観をぶつけ合っているだけでは絶対に前に進まないものなのです。
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