メディアリテラシーと海外経験

Pocket

カンボジアの首都プノンペンからアンコールワットのあるシェムリアップに移動して2日目。シェムリアップの印象は日本で言うと軽井沢のようなイメージでしょうか、街が非常に洗練されていて、治安的にもプノンペンよりもだいぶ良いように感じます(tukutukuに座席横に金網が張ってあるプノンペンと、そうでないシェムリアップの差は大きいですね)。至極当たり前のことではありますが、どちらか一方を訪問しただけで“カンボジア”を知った気になってはならないなと改めて痛感します。

5e88d9f965788be9e8ff81696e3fa3d1_s

n=1で全てを知った気になる

カンボジアの2都市を訪問しただけでカンボジアのことを分かった気になるというのは、普通に考えればかなりおこがましい話です。日本に住んでいて、日本の国内旅行等で様々なところを訪問していながらも、日本の全てを知っているかと言えば、知らないことの方が多い、というのが現実。そういった現実を頭のどこかで認識しつつも、こと海外のこととなると、「相手もそれほど知らないだろう」と高を括るのか、自分の体験談がすべてかのような話し方をしてしまうように思えます。いうなれば、n=1で全てを語ってしまうような危うさがそこにはあると思うのです。

これは、以前ブログで上げたメディアリテラシーの側面に非常にリンクしているように思えます。どういうことかと言うと、メディアから流れてくる情報はn=1の情報だということです。確かにその情報は彼ら(メディア)の側面から見ればそのように映るのだとは思うのですが、違う側面から見ればまた違った事実が浮かび上がってくる可能性があるわけですね。それをあたかも、「これが真実の全てです」と言わんばかりにマスメディアは情報を流し、それを多くの日本人は鵜呑みにしてしまうのです。

日本に住む日本人は違う価値観に触れる機会が圧倒的に少ない

この“鵜呑みにしてしまう日本人”が作られてしまう原因を挙げるとたくさんあるように思えますが、そのうちの一つが、“海外経験”のような気がしてなりません。海外に出ると、自分たちの常識が覆されることはもとより、そのような自分たちとは違う常識を持った人たちが日本を見た時に、思いもよらない視点の意見をもらうようなことが多々あります。そのような意見に触れていくうちに、いかに自分の考えの幅が狭く、一義的に物事を捉えているかということに気付くわけです。

そして、それは特に日本人が日本に住んでいると非常にそのような状態に陥りやすいことも見逃せません。ご存知の通り、日本に住んでいるのはほとんどが日本人であり、他の国の方とコミュニケーションを取る機会が他の諸外国と比較すると圧倒的にその機会がありません。そのような環境が変な意味で整っていることにより、マスメディアからの流れてくる情報が鵜呑みにされるような気がしてなりません。

“海外に出れば全てが解決される”とまでは言わないまでも、非常に多くの気付きを与えてくれる経験になるとはやはり思うわけです。

スポンサーリンク


キヨカワ

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


コメントする