収監前と後のホリエモンの変化
週末ふとテレビを付けると、ホリエモン(堀江貴文氏)が出ていました。見ていて改めて思うのは、“極めて合理的に物事を判断してきた人”であるということ。しかし、収監前と収監後ではその“合理性”に変化があることも感じられます。その変化は少し残念であり、ただ、日本社会で何かを成そうとするには必要不可欠な変化かもしれません。
収監前後でホリエモンに変化が
その変化は何かと言うと、“相手の立場に立つ”というものです。収監前のホリエモンは、基本的に相手の立場に立つということをほとんどしてきていないと思います。球団を買おうとしたことも、テレビ局を買おうとしたことも、また、政治家になって総理大臣になろうとしたことも、自分自身の目的をいかに合理的に、最短ルートで達成しようかと考えた時に出てくる手段です(それを実際に実現しようとする行動力が最もすごいところですが)。しかし、それが“最短ルート”であるがゆえに、色々な人から叩かれ、批難にあうことになったのはご存知の通り。
ところが、最近のホリエモンを見ていると、収監前のような騒動を起こしている形跡はありません。「反省したのでは?」という説もあるかもしれませんが、最近厚切りジェイソン氏と対談している記事を読んで、ホリエモンの明らかな変化に気付きました。厚切りジェイソン氏と言えば「Why? Japanese people?」で有名で、いかに日本が非効率なことをやっているかということを度々指摘しているのですが、そのジェイソン氏に対してホリエモンが「俺もそう思うけど、直球で直そうとしても日本は変わらない」というようなトーンでジェイソン氏と対談しているのです。
日本で何かを成そうと思ったら“相手の立場”は必須
ここで私の話とホリエモンの話を重ねるのもおこがましいですが、私も度々同じような目にあってきました。要するに、“合理性”という意味では正しくとも、あまりに最短ルートを進みすぎて、誰かの虎の尾を踏んでいるというようなことがたくさんあります。そのようなことが起こる度に、「世の中はおかしい!」と思っていましたし、同じような感覚を持っている人を見つけては、「そうだよね!」と同調していたように思います。しかし、このように自分の正当性を貫くと、残念ですが生きづらくなります。
では、独立すれば良いのかと言うと、実はそうでもありません。独立しても実は同じようなことが求められるということに気付きます。実際、ホリエモンは組織のトップでした。彼はあれだけ目立つことをしたから多くの人から叩かれただけであって、小さなことで言えばそういったことはたくさんあるわけです。もちろん、独立した後はある程度自分の中で仕事や一緒に仕事をする人を選ぶことはできます。ただ、選ぶだけの余裕があればの話というくらいです。そして仮にそう自分で選んでも、“相手の立場に立つ”ということができない人は、特に日本社会においては敬遠されてしまいます。
失敗も「なぜ失敗したか」が明確なら次に活かせる
“相手の立場に立つ”ということは、ホリエモンもそう変わったように、日本社会で何か物事を成すためには必要不可欠な力のような気がしています。誤解いただきたくないのは、それによって自分の意見を言うことを控えたりする言い訳にするということではないということ。自分自身の“目的”を達成するために、“相手の立場も考えた上で”どのように進めていくことが最も合理的なのか。この“相手の立場も考えた上で”という点が極めて重要で、それを考えた上で積極的に発言していくことは非常に重要なわけです。
このようなステップを踏んだとしても、当然失敗はあります。ただ、それはそれで前向きな失敗であり、次回以降同じ虎の尾を踏まなければ良いわけです。結局は、何が虎の尾で失敗したのかということがよく分からないまま同じミスを繰り返してしまうということこそが最も避けるべきことであり、私はそれが分かっていなかったからこそ、サラリーマン時代は大変だったというだけです。“相手の立場に立つ”というよく言われることではありますが、改めてその重要性をホリエモンを通じて感じた週末でした。
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