空気を読めない方がグローバルで活躍できる!?

Pocket

“KY”という言葉はまだ使うのでしょうか、「空気が読めない」ということについての話。最近読んだ記事で「空気を読む日本人は海外で評価されない」という話がありました。半分納得感があるものの、半分疑問に思うこともあります。”空気を読む日本人”は本当に海外で評価されないのでしょうか。

8b78540ca6c3d6d850957f533be1b2dd_s

同記事によると、“空気を読む”=“批判的な意見を言わない”というような定義をしているようでした。なるほど、その定義においては正しいと思えます。特に欧米の方々と話をしていると、得てして日本人は「大人しい」と言われます。何か具体的な意見を求められても同意するだけ、ひどいときには笑顔ではぐらかすだけなんていうことも多いように思えます。そのように対応してしまうのは、“空気を読む”というよりは、恥をかきたくないという意識の方が強いように思えます。

日本人が発言できないのは言語の問題と、自分の意見のなさ

理由は2つあります。1つは言語レベルの問題。本当に議論についていけているのか、その時に適切な発言ができるのか、また、仮に人と違った意見をした際、それについて更に突っ込んだ質問をされた時に答えられるのか。そのようなことをぐるぐると考えている間に何も言えずに終わるということはよくあることのように思えます。「失敗は悪」というかのごとく、その場で「正解」を言える確信がない限り発言しない=ほとんど発言しないという構図になっているのではないかと思います。

もう1つは、自分の意見がそもそもないという問題。1つめの理由に関連する部分ではありますが、日本の教育は自分の意見を考える教育ではなく、正解を覚える教育です。正解がない世界というものにどうしても慣れていないため、事実ベースの話はある程度できても、「じゃあ、それについて“あなた”はどう思うの?」という問いに答えられないケースがほとんど。日本はダイバーシティという概念がないからかもしれませんが、自分がどういう立場だから、○○という意見を持っているというような考え方をほとんどしたことがないのだと思います。

相手が求めていることに応えていくことこそ、空気を読むこと

上記のような背景が相まって、“適切な発言をする自信がない”=“空気を読む(発言しない)”=“何を考えているか分からない”=“評価されない(しようがない)”という構図になっているのかと思います。ただ、私個人としてはたとえ海外であったとしても“空気を読む力”は絶対に必要だと思っています。その理由は、私の“空気を読む”という定義が、“相手を尊重する”という定義だからです。

欧米において、“批判をしない”=“建設的な議論をする気がない”というように捉えられる節があります。なので、欧米の方々と議論する際には批判すればいいという話ではないものの、失敗してでも自分の考えを言ってみることがまず第一歩としては重要です。たとえそれが間違っていたとしても、相手もこちらの英語力等を鑑みてくれますし、失敗というようには捉えられないのです。相手が求めていることに対して応えていくということこそ“空気を読む”ということなのですから。

空気を読む=保身ならば、KYであった方がマシ

逆に言えば、同じ日本人に対して真っ向から批判することは“空気を読めない”と言われても仕方のないことと思う必要があります。私も留学から帰ってきた直後に経験していますが、直接的な表現を日本人にぶつけることは非常に嫌われる原因になります。「それが面倒くさい」と思ってまた海外に出てしまう日本人も多いようですが、それは相手を理解しようとすることを放棄しているだけの話であり、ただの子供なのです。

もしかすると、多くの人は“空気を読む”という定義を“批判しない”という定義にされているのかもしれません。それは単なる保身ですよね。ならば、KYという言葉が保身を考えない人という意味になります。そんな意味ならば、KYで構わないかもしれない。ただ、相手を尊重するということは絶対に忘れてはならないことだと思います。それはグローバルで活躍する人材になるということはさることながら、一ビジネスパーソンとして活躍する上でも非常に重要なことではないかと思います。

スポンサーリンク


キヨカワ

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


コメントする