市川市の保育園の開園断念問題
市川市の保育園の開園が住民の反対により断念されたというニュースが大きく報道されていますね。報道上では“子どもはうるさい”という理由が大きいようです。どこまでこれが真実を語っているのかは分かりませんが、仮にそれが本当だとすると日本の将来は益々暗いものになるなと思わざるを得ません。
経済が成熟すると“自分勝手”になれる環境が作られる
「保育園落ちた、日本死ね」の発言が波紋を呼んだことは記憶に新しいですね。この発言自体はどうなのかという問題は残るものの、待機児童の問題についてはこれからの日本を考えた上で解消していくべき大きな問題の一つであることは間違いない。そのような大きな流れに対して“子どもがうるさい”という理由で開園が断念されるという、表面的にだけ見れば非常に残念としか言いようのない事態が引き起こされているように思えます。
先日カンボジアに行ってきたことも手伝って改めて思うことは、経済が成熟すればするほど周囲との関係性は希薄になり、それと同時に個人の持つ権利を主張しやすくなるということです。分かり易く言い換えれば、経済が成熟していなければ、周囲と助け合わなければならないという“制約”が働き、それが一人ひとりの“自分勝手”を許さない状況を作られますが、経済が成熟すればその“制約”は少なくなり、一人ひとりが“自分勝手になれてしまう環境”があるわけです。
成熟した社会において問われる“共生”の意識
このような“自分勝手になれてしまう環境”の中で問われるのは、“共生”の意識です。“共生”とはその言葉通り、共に生きるということ。人は一人では生きていけません。ところが、経済の発展により一人でも生きていけるかのような錯覚に陥らされているように思えます。それはどこまでいっても“錯覚”であり、“錯覚”したまま“自分勝手”に生きるような人が増えるならば、その社会の未来が明るいはずがありません。もっと言えば、「社会の未来がどうなろうと知ったことじゃない」というような人さえも増えている可能性も否めません。
このような話をすると、「では、社会のために自己を犠牲にしろということか」という話になりがちですが、100%社会のために生きろというのは間違っているとは思います。この“自分のため”か、“社会のため”かということは0か100の話ではなく、お互いに譲れることは譲っていき、上手くバランスを取っていく状態を作らなければ、お互いにとって良い結果には繋がらないということを改めて申し上げたいわけです。
制約を前向きに捉えることが人間性を高める
ある種、“社会のため”ということを考える際には、何らかの“制約”が伴ってくることが多くあります。今回の保育園の問題であれば、“うるささ”というような“制約”がかかってくるのでしょう。そのような“制約”に対して、一人ひとりが前向きに捉えられるかどうかということが、一人ひとりの人間性を問うているような気がしてなりません。少なからず、子どもの声というものを“騒音”と捉えるような人の人間性が優れているとは到底思えません。
“制約”という言葉はどちらかというとネガティブな印象を持ちますが、この“制約”こそ、人の人間性を高めることのできるハードルのようにも捉えられます。そしてその“制約”が厳しいものであればあるほど、それを前向きに捉えることが難しくなります。しかし、そのような厳しい“制約”さえも前向きに捉えられる人こそ、人としての人間性が高いと言えるのではないかとも思います。
日本の社会は十分に成熟しました。ここから先問われることは、一人ひとりの“人間性”ではないかと思ってやみません。
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