新規プロジェクトの進め方で外してはならないこと
“複数の人を巻き込んで1つのプロジェクトを成功させる。”企業においてルーティンで行われていることも含めれば日常茶飯事なことかもしれませんが、こと新規プロジェクトとなると途端にその難易度が上がります。もちろん、何を以って成功かというところにもよりますが、誰もが成功と思えるようなプロジェクトを実現するのは非常に難しいことです。どうすれば成功するかということまでは言及できませんが、どうすると失敗するかということを今日のテーマとして書いていきます。
プロジェクトの目的のコンセンサスを取る
失敗するポイントの1つ目は、“プロジェクトの目的のコンセンサスが取れていない”ことです。そのプロジェクトを実施するに当たって、プロジェクト メンバーで共有しなくてはならないのがプロジェクトの目的です。「そんなものは分かりきっているだろう!」と怒られそうですが、実際にプロジェクトメン バーに言語化させてみると微妙なズレがあります。それは、プロジェクトを進めるに当たっての議論を進めていくと、プロジェクトメンバーで意見のズレが出て くることが何よりの証拠です。
「メンバーで意見の相違が出てくるのは当たり前」と思うかも しれませんが、実際は“目的”のコンセンサスが取れていないことがほとんどです。以前記事でも上げていますが、「個人的には○○と思う」というような、 “個人的”というキーワードが出てくる議論は目的が握れていない証拠です。そのプロジェクトはあくまで設定された“目的”を達成するための議論であり、 “個人的な意見”は聞いていないのです。“個人的には~”というキーワードが出てきたら、“目的”が握れていないということを疑った方がいいでしょう。
責任者を必ず明確にする
失敗するポイントの2つ目は、“責任者不在”です。「責任者がいないプロジェクトなんて存在するのか!?」と思われそうですが、意外とあります。形式的には誰が責任者かということは決まっているケースもあるようですが、議論が暗礁に乗り上げて何かを“決め”なくてはならないような側面において、自身の責任を以って決断をしていくことができる存在が絶対的に必要です。
勘違いしていただきたくないのは、“責任者”=“トップダウンで物事を決める人”ではないということです。トップダウンで物事を決めていくということは1つの手段ではありますが、ボトムアップで物事を決めてももちろん構いません。ただ、どういった決め方であれ、決まった事項に対して責任を持つことが責任者には求められるわけです。なぜなら、トップダウンであろうが、ボトムアップであろうが、その決め方を決められるのは責任者に他ならないのです。その責任を取るべきはずの責任者が不在であることこそ、プロジェクトが頓挫する大きなポイントの1つです。
責任者が最も実践して欲しい行動をする
失敗するポイントの3つ目は、“責任者が口だけ”ということです。表向きは真っ当なことを言いながらも、行動に全く移さない又は、最も実践して欲しい行動をしない(できない)ケースがこれに当たります。特に、関係各所との調整をしない(できない)人が多いように思えます。新しくプロジェクトを実行するということは、実プロジェクト以外の側面においても関係各所と調整をしていかなくてはならないのですが、この調整に対して“無頓着”もしくは、“苦手意識”を持ってしまっているのかなんなのか、とにかく行動できない(しない)とプロジェクトはくだらないところで破綻します。
そんなくだらないことの代表例が、「そんなことは聞いていない!」と激怒し始める影響力の強い人との調整です。プロジェクトの内容としては誰が見ても素晴らしいものになっていたとしても、それを事前に知っているかどうか等、本当にくだらなさこの上ない話ではありますが、そのようなステップを踏まない(気付いていない)責任者は完全にアウトですし、知っていてできない人は責任者をやるべきではないでしょう(もちろん、それらをメンバーに任せるということも責任者の選択肢としてはあろうかと思いますが、そこに本当に責任が取れるのか分かりませんし、やりたくないから任せている可能性もあり、それをもしメンバーが感じ取ってしまったら…非常に微妙です)。
まとめ
まとめると、新しいプロジェクトを失敗させないポイントとしては、“プロジェクトの目的をメンバーで握る”、“責任者を明確にする”、そして、“責任者に最も実践して欲しい行動をする”の3つです。この3つが揃ったとしても、“成功”するかどうかというと分かりません。ただ、この3つのポイントを外しているプロジェクトは、実際にプロジェクトとして表面的に、単発では成り立つかもしれませんが、様々な波紋を生み、継続的なプロジェクトにはなりにくいことも事実です。
本当に初歩の初歩のような話のような気もしますが、初歩の初歩だからこそ、改めて認識する必要がある気がしてなりません。