「使える人材」と「使えない人材」を分けるポイント?

Pocket

「使える人材」と「使えない人材」を分けるポイントを探った。そしてわかったのは、「使える」と言われた新人はみな子どもの頃に親の手伝いをした経験があり、「使えない」新人はしたことがない、という事実だった。つまり「小さい頃お手伝いをしていたかどうか」が両者を分けたのだ。以後この会社では、「子どものときに親の手伝いをしたことのない人間は、採用してはならない」と決めたという。(中略)

現代の日本で親が子どもに第一に求めることは「勉強」だ。「勉強しなさい」と言われ続けた子どもたちは、「一番大事なのは勉強だ」と思い込む。たまに「お手伝いしなさい」と言われても「家事はお母さんの仕事でしょ」と反論する。受験生の親などは「子どもに勉強以外何もさせないことが自分の仕事」と心得ている。親子とも悪しき「勉強至上主義」に毒されているのだ。

しかし子どもの勉強も、家あってのもの。生活のために親のしている仕事こそ、何より大事なもののはずである。私に言わせれば子どもが一番にすべきことは勉強ではなく、親の手伝いである。つまり「お手伝い至上主義」だ。

(参照:子どもを将来仕事に困らない人間に育てるには、プレジデントオンライン )

illust3595

子供時代の価値観はなかなか抜けない

子供の頃にお手伝いをしていたかが「使える人材」か「使えない人材」かを分ける。もちろん、端的な表現として、というところだと思うけれども、理に適っている話にとても聞こえる。人間は基本的に“承認の動物”なので、自分がどうしたら“承認されるのか”ということを常に考えて行動していると思います。

そういった中で、今回のように何が“承認されるのか”ということを、子供時代に間違って教えてしまえば、その価値観は中々崩せなくなるというのも非常に頷けます。そういった意味で今、一人の子供の親として危機感を持っているのは、今の日本はまだまだ勉強至上主義なのかな、ということ。

本質が難なのかを考えられる力こそ社会で必要な力

もちろん、勉強そのものに対して意味がないとはもちろん言わない。けれども、本質的なことは小学校の「道徳」以外からは学べていなかったようにも思える。今振り返って一番大事だと思うのは、そういった 勉強を通じて、本質は何なのかを考える力だと思っています。理科は世の中の法則について学ぶ科目だと思うし、歴史は人の心理について学ぶ科目だと思う。そういったことを教えられず、単に暗記に走らせる教育と当時の自分は解釈していた。そこに対してものすごい危機感を感じる。

社会に出て思うことは、そういった“本質”をどこの場所にいても求められる、ということ。それまでどんなに点数が取るのが得意でも、社会に出て活躍できない理由はここにあると思っている。とはいえ、とにかく暗記のような勉強をしてきたからこそ、そういうところに気付きを持てたりするもので、そういったことが当たり前のこととして捉えられていたら、これほどまでにそこに強い想いなんかは存在しえないんだなと思うと、どういう教育が本当に良いのか分からなくなるのも事実としてありますね。…難しい(笑)。

スポンサーリンク


キヨカワ

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


コメントする